コード9

騒ぐ

自家中毒

Twitterで戦争の記事をリアルタイムで追い過ぎて完全に具合が悪くなった。開戦直後からぶっ続けで追い続けるのは明らかにメンタルに来る。他国で起こっている戦争以上に日本国内のリアクションが顕著なの、このリアルタイム性がかなり影響している気配がある。東日本大震災で私は震災直後は電気がなかったので映像の情報がまるで得られず、1週間以上経ってからようやく何が起こったか理解したので、被災しなかった人が連日の情報でダメージを負ったと後で知ったとき、正直そこまでぴんと来なかったんだけど、絶対に自分の力で助けようのない苦しみを現在進行形で味わっている人が大勢いる事実をリアルタイムで知らされる特有の無力感はしんどい。

今回は震災と違って人の意思が介入した悲惨で、ひょっとしたらあらかじめなんとかできたかもしれないと頭によぎるわけで、でもそれすらきっと微々たる影響しか世界に及ぼせず、むしろ何かして駄目だったほうか辛かったかもと思える始末で、こういう時に何もできない人間の側が「自分のできる穏やかな日常生活を堅実に続けること」を、生活の破壊者に対する抗議とみなすという思想はぽつぽつ見つけた。理解できたし頼りになる。でも、それは現状を維持するだけでなにか平和に貢献したつもりになってしまう毒薬であると警告する人もいて、それもそうかと思う。じゃあどうするか。

さっそくデモに参加しようとしても最寄りのデモ開催地がはるか彼方で、じゃあこの地で一人でやるか?車に国旗のステッカーを貼る?(個人的に今回の戦争においては、どちらかが明確に正義ではなくとも、一方が大きな悪を犯したのは間違いなくて、その悪には『国』という単位の閉塞感もかかわっていると思うので気が進まない)自分にできた活動らしきものは、Twitterでタグをつけて呟いて、とりあえず人道支援団体にいくらか送った。そこまでだ。それ以上できることがあるのはわかる、でもつらい。一日勉強を8時間やれば成績がよくなるとわかっていて、でもそれは選択しないのに似ている。間違ったものを持ち上げないように、自分が何に対して意思を表明したいかを真に理解して行動するために、たくさん情報を集めて、現状を理解するのはかなり消耗する。

結局何が正しい?を文章で表現しようとしたとき、「みんながこうするべきだ」と「私はこうする」が表現されるべき場所とタイミングって違うんだなとようやく気付いた。平時に各自のおすすめを聞いておいて、いざというときに私が私として何をするかを表明する。たぶんそこをごっちゃにすると、各々の精神的キャパシティを無視してしまうと思う。現実に呑まれそうになっているときに他人の文章を飲み込んで消化するのはシンプルにキツい。つまり平時に思想の消化吸収速度も高めておく必要があるんだな。一日五分のジョギングみたいなノリで脳の体力を維持できればいいな。でももうしんどい。日常に引きこもって体力を取り戻してからもう一度調べたい。