コード9

騒ぐ

ヘッドホン

骨伝導ヘッドホンが欲しかったのは、外の音が聞こえるヘッドホンが欲しいという理由が主だったから別に骨を経由しなくてもいい。最近どこかで穴あきイヤホンを見つけて、それはどういう構造かよくわからないけどとりあえず耳に詰め込む部分に穴が開いているのは確かだったので、こっちのほうがいろいろわかりやすくていいなあと気になっている。骨伝導で体調を崩したレビューも見たので、何かと頭痛薬を飲んでいる自分には向いていない気がしていた。

学生の時はノイキャン付きのウォークマンにずいぶん助けられた気がする。インスタント静寂。あの頃はずいぶん音楽を快適に聞いていたなあとまでは自覚していて、こうして改めて考えてみると考えていた以上にノイズキャンセリングに頼っていたのかもしれない。室内で一人イヤホンで音楽を聴いたとしても一人の世界に浸れるとは言い難い環境だったので、外出先でぼんやり音楽を再生する方がいっそ安心した。隙あらばあちこちウロウロしていた。あの頃を思い出すとそりゃ頭もどうかするわという納得ばかりで、反省はなく妙に他人事めいた同情が積み重なって、あんまりこれ繰り返すとどんどん自分に甘くなるんじゃないかという危機感はある。いっそもっと過去の自分を他人として突き放してしまえればいいかもしれない。田舎の学生、ファッションセンス無し、金も無し、別段とりえもない。睡眠時間は一日3+3時間。やっぱり駄目そうだ。こういうことを言っていると傷を舐めるだけになる。恨みつらみはやっぱりある。インターネット以外にぶつけないようにするので、後生大事に抱えて生きていくのを見逃してほしい。あの頃の自分がまだずっといる。きっと「大変だったね」とか言われたところでお前に何がわかるとはねのける可愛げのない生き物がいる。一度だけ学生カウンセリングに行ったけれど、行くべきじゃなかった。カウンセリングで人に話を聴いてもらって何かから解放される幻想をあの時点で手放すべきじゃなかった。

自家中毒

Twitterで戦争の記事をリアルタイムで追い過ぎて完全に具合が悪くなった。開戦直後からぶっ続けで追い続けるのは明らかにメンタルに来る。他国で起こっている戦争以上に日本国内のリアクションが顕著なの、このリアルタイム性がかなり影響している気配がある。東日本大震災で私は震災直後は電気がなかったので映像の情報がまるで得られず、1週間以上経ってからようやく何が起こったか理解したので、被災しなかった人が連日の情報でダメージを負ったと後で知ったとき、正直そこまでぴんと来なかったんだけど、絶対に自分の力で助けようのない苦しみを現在進行形で味わっている人が大勢いる事実をリアルタイムで知らされる特有の無力感はしんどい。

今回は震災と違って人の意思が介入した悲惨で、ひょっとしたらあらかじめなんとかできたかもしれないと頭によぎるわけで、でもそれすらきっと微々たる影響しか世界に及ぼせず、むしろ何かして駄目だったほうか辛かったかもと思える始末で、こういう時に何もできない人間の側が「自分のできる穏やかな日常生活を堅実に続けること」を、生活の破壊者に対する抗議とみなすという思想はぽつぽつ見つけた。理解できたし頼りになる。でも、それは現状を維持するだけでなにか平和に貢献したつもりになってしまう毒薬であると警告する人もいて、それもそうかと思う。じゃあどうするか。

さっそくデモに参加しようとしても最寄りのデモ開催地がはるか彼方で、じゃあこの地で一人でやるか?車に国旗のステッカーを貼る?(個人的に今回の戦争においては、どちらかが明確に正義ではなくとも、一方が大きな悪を犯したのは間違いなくて、その悪には『国』という単位の閉塞感もかかわっていると思うので気が進まない)自分にできた活動らしきものは、Twitterでタグをつけて呟いて、とりあえず人道支援団体にいくらか送った。そこまでだ。それ以上できることがあるのはわかる、でもつらい。一日勉強を8時間やれば成績がよくなるとわかっていて、でもそれは選択しないのに似ている。間違ったものを持ち上げないように、自分が何に対して意思を表明したいかを真に理解して行動するために、たくさん情報を集めて、現状を理解するのはかなり消耗する。

結局何が正しい?を文章で表現しようとしたとき、「みんながこうするべきだ」と「私はこうする」が表現されるべき場所とタイミングって違うんだなとようやく気付いた。平時に各自のおすすめを聞いておいて、いざというときに私が私として何をするかを表明する。たぶんそこをごっちゃにすると、各々の精神的キャパシティを無視してしまうと思う。現実に呑まれそうになっているときに他人の文章を飲み込んで消化するのはシンプルにキツい。つまり平時に思想の消化吸収速度も高めておく必要があるんだな。一日五分のジョギングみたいなノリで脳の体力を維持できればいいな。でももうしんどい。日常に引きこもって体力を取り戻してからもう一度調べたい。

体調に脳を含む

おつまみ系の固い昆布かじってるときが一番無駄なこと考えてないかもしれない。味覚以外の情報あんまり覚えてない。食べ過ぎが体に悪いのでかろうじて量を制限している。でも男梅と一緒に食べると体への負担をブーストしてさらにおいしくなる。何時間か汗かき続ければノーカンになってくれるかな。運動はだいたいの悪を祓うので偉大。
サウナは湿気がすごいタイプのが好きなのに近所から無くなってしまった。ガソリンも高いから迂闊に遠出もできない。なんかもうわけわかんなくなってきたから明日会社休もうかな。休暇連絡入れたくないな。でも休んでしまえばなんとかなるのだ。というより何も見ないふりをするんだ。私の消耗は私にしかわからない。でも今月ワクチンで休みそうなんだよな。どうしよ。

ファール球

優しさの発動には脳のキャパシティが必要ですが、キャパシティを確保しつくした末に自己防衛のための部分まで優しさに使い果たすことができたら、少なくとも本人は幸せではいられるだろうなと思いつつ、万人がそれだときっと人と人とが密着しすぎてどこかで何かが成り立たなくなるんだろうなあという気はする。そこまでの過程は全然思いついていないけれど。

きゅうくらりん聴いてたらいい感じに脳がほぐれてきたから、勢いよく何か文章書けるつもりでキーボードバチバチやりはじめたら何にも出てこない。これは綺麗なまとまったものを書こうとしている。こんなにいいこと言えるぞとアピールしようとしている。アピールしたい欲自体はもう否定しようがないけれど、それが先立つと思いついていたことをいいように取り繕って、どうにかして一見ちょっといい話風だけどよく読むととげがありますよ”風”の実際自分の中からなんにも出てきてないものが爆誕するのはいやというほど知っている。ここで保険かけるのがもうだめ。もう欲そのまま出していけ。

Gravityやってたころにフォローしてた人Twitterで見かけたけどなんんにも声掛けられないし「グラビティやってましたよね!」が第一声なのストーカーの紙一重だし、こっちはくっそ思い入れのある人だけど向こうからすればなにあいつ怖……かなんだこいつ知らん……で終わるのがきわめて自然。突然の隕石に対処させて精神的リソースを消費させたくない。じゃあ私はどうしたいかというと、いいねつけるのを見逃してほしい。でもフォロー外の見知らぬ人間になんか見られているという圧をかけて、避難所としてのTwitterアカウントをめんどくさい場にしたくない。

どう考えてもこれ黙って見守るのが正解だったじゃん。向こうからこっちを認識してもらおうとしてるじゃん。ツイートひとついいねつけてしまった。完全に失敗。存在感を表した時点で我欲が隠せていない。かといって今からアクションするのは「動き」が発生するのでさらに悪手。何食わぬ顔をしろ。

ブルーライト

なんかしようと思ってなんもしない休日が今週も終わる。Twitterスマホでのネットサーフィンが気楽すぎて4時間くらいなら気づかず溶ける。いや実は途中で読書に切り替えようとした。本を開いたものの目が滑って全く読み進まず諦めた。おまけに昼過ぎに一気に眠くなって仮眠のつもりで机で寝たら悪夢にうなされながら2時間経過した。最近は机で寝ようがベッドで寝ようが全身にこれでもかと力を込めながら寝る謎の体質になっているので、目覚めると手足がへろへろになる。こんなんだから日中無気力なのに、夜特有の焦燥感でリラックスできずに眠れなくなる。なんか寝れないなという時はたいてい薬を飲み忘れている。眠剤ではないけれど明らかに睡眠はマシになる。眠気が来たからと飲まずに寝たら3時間おきに目覚めた。
睡眠の改善には日中の運動と夜のスマホ断ちがいいなんてもうスマホスマホじゃなかったころからわかってんだ。脳がガタガタなのは学生の時からだ。そういう挑戦に対して「これでぐっすり眠れるかも」とか「ちゃんと実行できたからこれでいける」みたいな希望に満ちた感情が一切生じないし、何ならあえて失敗し続ければいつまでも奥の手としてとっておけるわけで、その方がトータルで勝てる可能性が高いと思ってしまう。
2月はいつもしんどい。冬の閉塞感と春のせわしなさがまとめて押し寄せて息が詰まる。暖かくなるだけでマシになるんだけどな。

とかいあじ

最近のセブンイレブンは都会の味がする。なんか気の利いたメニュー、高めの値段。一番都会感があるのはこまめなリニューアルによるものだと思う。田舎とリニューアルという言葉は食い合わせが悪い。リニューアルされないから田舎。自然が豊かだろうとこまめな変化があったらもう「都市」だもんな。変化が進化とは限らないけど進化しているものはどこかしら変わっている。

いつからこのパッケージ使ってんだよと思わせるような変わってる感皆無の商品や独自ブランドは嫌いじゃない。レトロなパッケージがそのまま付加価値になっているタイプの。昔イギリストーストが好きだった記憶がある。グラムあたりカロリーが高いので便利。もっちゃもっちゃ口を動かし続けるのはそれなりに精神力が要るから、胃腸さえ耐えられれば効率がいいのは助かる。

10代からすでに油の種類をかなりえり好みする体質だった。マーガリンは平気だった。マーガリンがずっと好きだ。バターの代用品ではなくマーガリンはマーガリンというジャンルの食べ物だ。あの舌ざわりもよい。関係ないけどお菓子作りでマーガリン使うべきところでバター使ったせいでひどいことになっている同世代がよくいた。マーガリンがバターの下位互換だという誤解が何者かによってもたらされている。とはいえ手順をあ違えなければ食べられないものができたりはしない。バターをサラダ油で代用したクッキーを渡された時が一番しんどかった。ココアパウダーをインスタントコーヒー(再度すりつぶしたりはしていない)で代用したとも聞かされたから、たぶんレシピの想定外の出来上がりになっているとはわかっていつつ少量食べたけど、シンプルに体調が悪くなった。それ以降作り慣れていない人の手作りお菓子は受け取り時に入念なヒアリングを行った。未成年のうちに手作りを経験するのはいいことだと思うけれど、贈り物目的がスタート地点なのっていろいろ危なっかしいな今考えると。

忘れてもいいことがない

タコピーの影響で紅茶キノココンブチャが話題になっていてビビった。どうやら今は自家製ばかりでなくてちゃんと工業的に作られた衛生的なものが市販されているらしい。韓流の美容飲料扱いしている層は、雑誌の荒い紙に白黒で印刷されたおどろおどろしい紅茶キノコの写真を見ていない層だと思うので、どうにかそのまま紅茶キノココンブチャをちょっと変わった飲み物ぐらいのポジションで固定してほしい。自家製こだわり界隈は高確率でカスピ海ヨーグルト作ってたことがあるというツイートがじわじわくる。容易に想像できる。菌への信頼が厚い。

よろしくない思想には別アプローチをぶつけるのが一番効くというか、よろしくないものだから忘れ去られるまで見えないところに隠しておこうという試みは高確率で失敗すると思い込んで生きている。それらしいロジックを信じてくれる人さえいれば何度でもトンチキ健康法は甦る。ネズミ講とかも蘇る。自分が何をきっかけにそのへんを知ったかあんまり思い出せない。

自分のなかのよろしくない思想に別のアプローチをぶつけてしまえば、同じことで鬱々としなくて済むんだろうか。ただそういうループ状態で頭を使うと、毎度ループが加速する。寝るのが一番ってみんな言う。実際そう。でも寝れるか?薬がないと眠れなくなってだいぶ経つ。たまには寝ないときが要る。寝ないほうがテンション上がってうまくいくことがないですか?それが錯覚だとしてもそれに頼るしかない。頼るしかないと変な確信を持つのがすでに駄目なループだ。もうだめだ。